「民俗文化財とは衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋、その他の物件など人々が日常生活の中で生み出し、継承してきた有形・無形の伝承で人々の生活の推移を示すものである。」(文化庁HP「民俗文化財」より)
嘉手納町にも以下のように伝統芸能として町指定民俗文化財が存在し、各字で大切に継承・保存されています。
千原部落は北谷間切り野國村の一角に属し、1,800年頃、首里や那覇、久米村からの移住者によって、7、8世帯の小部落(屋取)が形成されました。その頃、12、3名の男子が寄り集まって、祖先の供養と村人たちの娯楽のために部落独特のエイサーを始めたのが千原エイサーの起源。
この踊りは、明治時代から屋良部落の村遊びで踊られてきたといわれています。あやぐは本島の各市町村にも独特のものがいくつかありますが、ほとんどが男女による群舞となっています。屋良部落でも昔は男女がペアーになって16~18名で踊ったとされています。また、屋良には「屋良のチンク」という民俗文化財があります。
日露戦争での戦勝祝いに、北谷の北部と読谷の南部で行われた綱引きの余興がおこりと言われ、チンクの指導にあたったのは喜屋武朝徳(チャンミー)です。屋良のチンクは「突貫」と言われ、昔は大綱引きの時に応援団の先頭に立って気勢を揚げる役目を果たし、応援合戦に花を添えたとも言われています。
明治時代に野國部落の有志が、那覇の芝居の役者から習ってきて部落の若者達に教えたのがこの芸能の始まりだといわれています。専門家の話では、この踊りは加那ヨー天川の原形をなすもので、仲尾時代の玉城盛重が創作したものだといわれています。
もともとは旧暦の八月に行われていた村芝居で演じられていました。戦後の空白期を経て、1973(昭和48)年頃から復活し、現在に継承されています。凱旋の引き際の芸能で鉦鼓(ショーブガニ)を鳴らし、それに合わせて太鼓を打ち鳴らす13~15名での演舞です。
野里の棒術は一名道棒ともいわれ、武術として普及され、二人が命がけで打ち合う姿は真剣勝負そのもの。棒術は組棒と一人棒とがあり、又棒も六尺棒と尺はじりといわれる三尺棒の二種類があります。組棒の種類は戦前まで49組くらいあったといわれていますが、現在は11組継承されています。一人棒には三手あります。