嘉手納町の歴史は古く、よく知られている野國貝塚群、嘉手納貝塚、比謝川河口南丘陵遺物散布地、屋良グスク、嘉手納グスク、国直グスクの6か所の遺跡などから、いにしえの時代の様子を知ることができます。
現在の嘉手納町域は沖縄で最も古くから開け、縄文時代以前から人々が住み着いていたと考えられ、今から6~7千年前のものと言われる貝塚群が比謝川河口から海岸線に沿って存在し、この付近が古くから豊かな自然環境を持っていたことを物語っています。当時の人々は自然の洞窟等に住み、漁撈・狩猟により生活の糧を得ていたと思われますが、社会の進展により、やがて内陸部へ移動発展し集落をつくり、現在の町のもととなる村々を形成したと考えられます。中でも屋良、嘉手納、野國の地域が早くから村として開けたところだといわれています。
14世紀には屋良城が築かれました。そこを中心に村々が栄えたと考えられ、「おもろそうし」や「琉球国旧記」等の記述から当時の様子を伺い知ることができます。また、1400年代に琉球王府をおびやかした勝連城主阿麻和利も本町屋良の出身であるといわれ、1605年に中国から甘藷を持ち帰ったとされる野國總管は本町野國の出身で、優れた偉人、英雄を輩出しました。
屋良城跡の石畳
現在の嘉手納町は、王朝時代から北谷間切に属する村々でしたが、明治時代に入り、1908年(明治41)「沖縄県及び島嶼町村制」により北谷間切は北谷村へ、嘉手納の村々は、北谷村の字となりました。
嘉手納は県営鉄道の終着駅でした戦前までの嘉手納町は、字嘉手納を除いて純農村でした。しかし沖縄本島のほぼ中間という立地条件に恵まれていたため、県営鉄道の終点に位置し県立第二中学校、県立農林学校をはじめ、官立青年師範学校、嘉手納警察署、沖縄製糖嘉手納工場等が所在し、中頭郡における経済、文化、教育の中心としての役割を果たしていました。さらに沖縄八景に数えられた水量豊富で風光明媚な比謝川には、県下各地から家畜を積んだ汽帆船が比謝橋付近まで出入し、中頭郡における家畜の一大集散地としても栄え、人と自然と産業の調和のとれたまちとして発展を遂げてきました。
第2次世界大戦時、本町は米軍の沖縄本島最初の上陸地点となり、その集中砲火は熾烈を極めました。その砲撃により住家をはじめ、一木一草に至るまで焼き尽くされ、1945年(昭和20)8月15日の終戦を迎えるに至りました。
B52の飛来戦後は、1948年(昭和23)4月頃まで嘉手納飛行場内の部分的通行が可能でしたが、その後米軍の飛行場管理が強化され、全面的に通行立ち入りが禁止されたため、北谷村々域は完全に2分されました。このため嘉手納地域の住民は、役場へ用をたすために遠く謝苅(北谷)廻りかあるいは越来村(現沖縄市)を迂回しなければならなくなり、交通の発達していなかった当時、日常生活をはじめ村行政運営にも著しく支障をきたしました。そのため、1948年(昭和23)12月4日人口約3800人をもって北谷村より分村、「嘉手納村」としての第一歩を踏み出しました。
その後、朝鮮戦争の勃発等により米軍は嘉手納飛行場を重要視し、逐年整備拡張が行われ、そのつど、宅地や農地は軍用地に姿を変え、狭小な住居地域を一層せばめていきました。膨大な面積を同飛行場地域に接収され、残された僅かな地域に住民はひしめきあった生活を強いられました。
また、住居地域が同飛行場に近接しているため、爆音、飛行機墜落事故、燃料流出、井戸汚染等枚挙にいとまがない程の基地被害をこうむり、「基地の町」として、嘉手納は沖縄の縮図だといわれてきました。
一方、戦後の混乱期は、産業皆無の状態であり、必然的に基地依存の生活に頼らざるを得ず、そこに就業と稼業の場を求めて人口と各種事業所が急増し、村の様相も次第に都市的形態を備えるようになりました。
こうした都市的形態に応じた新しい時代の新しい「まちづくり」をめざし一層の発展向上を図るため、1976年(昭和51)1月1日を期し、これまでの「嘉手納村」から「嘉手納町」へ移行し、県下で7番目の町としてスタート、1978年(昭和53)には、全町民の総意のもとに嘉手納町総合計画基本構想を策定し、本町のめざす将来像として「安らぎと生き甲斐にみちたまち・嘉手納」と定め、さらにその実現に向けて第一次基本計画を作成、それに沿った計画的な行政運営をすすめ、都市基盤の整備、生活環境の整備や教育、文化の向上等に多大な成果を上げてきました。1983年(昭和58)には新庁舎と町民会館(現在、かでな文化センター)が完成し、現在は「嘉手納タウンセンター構想」による再開発をはじめ、新たな「まちづくり」に向け、様々なプロジェクトが進められています。