比謝川の上流、嘉手納町と沖縄市の境の山中に屋良ムルチと呼ばれる池があります。昭和9年の観測によると、広さが715坪あったと記録されていますが、戦後米軍基地の拡張工事のため約半分が埋められました。
古くから伝わる伝説に「大蛇伝説」があります。ムルチに住む大蛇は暴風などの害をあたえ、住民は童女を人身御供に出せば、禍い事がやむと信じていました。ある年、親孝行の娘がたった一人の祖母を置いて、池に臨んだ時に天神様が現れ、その大蛇を退治して災害を除きました。その後娘は王子の嫁になり、祖母と一緒に幸せに暮らしました。
現在でも、屋良部落の祭事として毎年旧6月15日には御供えをして豊作を祈願しています。
※写真:屋良ムルチの大蛇伝説を素材につくられた組踊「孝行の巻き」の一場面
大川城ともいい、大川按司の居城があった所といわれています。屋良城跡は比謝沿い、河口から約3キロメートル上流にあります。
出土遺物にはグスク系の土器、輸入陶磁器が見られ、わずかに古銭や玉、鉄釘類のほか、一片ですが、叩き目を有する灰色瓦も発見されています。輸入陶磁器の出土から見て、13~14世紀の短期間に営まれたグスクの跡だと考えられています。
古老の話によると、琉球史上有名な阿麻和利が生誕したグスクとされるが定かではない。
1867年にできたこの五連続アーチ式の石橋は、戦前、比謝橋の近くまで山原(やんばる)船が出入りし、橋の付近は商業地として繁栄していました。
景勝の場所が多く遊覧にも最適で、沖縄耶馬溪(やばけい)と呼ばれ、史跡名勝地として沖縄八景のひとつに指定されていました。
1953年に1号線(現、国道58号)拡張工事のため基礎まで壊され、今日の鉄筋コンクリートの橋にかわりました。
比謝橋は、女流歌人・吉屋チルーの歌「恨む比謝橋や情けないぬ人のわ身渡さと思てかけておきやら」でも有名です。
嘉手納から比謝橋へ通ずる石畳の道で、全長72メールトル、傾斜30度くらいの坂道であった。造られた年代は定かではない。
1609年(慶長14年)3月29日、夕方6時、薩摩の陸兵一隊が読谷村大湾渡具知に上陸し、翌朝30日天川坂へ鉄砲隊を伴い進撃したが、神女の指揮下に嘉手納の夫人が熱いウケーメー(おかゆ)を炊いて坂の上から流し、薩摩軍の侵入を阻止したといわれる。現在は国道となり、交通量も激増し、沖縄本島の振興発展に重要な役割を果たしている。
昭和30年、甘藷(かんしょ)伝来350周年記念に合わせて整備され、その両側には、福建省泉州市恵安懸より恵贈いただいた石獅子像が、中国・琉球折衷型の建屋に建立されています。
所在地 嘉手納町字兼久
県指定文化財 『記念物』 史跡
(昭和31年2月22日指定)
野國總管は、尚寧王代に北谷間切野国に生まれました。總管というのは貿易船に乗りこんだときの役目であります。慶長10年(1605年)總管は中国から甘藷の苗を鉢植えにして持ち帰り、自分の故郷野国村に移植。その後甘藷は儀間真常によって沖縄中に広められました。
宝永年間(1704から1710年)に薩摩の人前田利衛門によって甘藷の苗が薩摩に移植され、さらに延享元年(1744年)青木昆陽がこれを関東にひろめ、それから日本国中にひろまることになりました。野国、野里では毎年旧暦2月に野國總管の墓に供物を供えてお参りしています。