野國總管は、北谷間切の野国村に生まれ育ち、後に中国に渡り甘藷(かんしょ=いも)を持ち帰った人物と伝えられています。当時の琉球は貧しく、貧困にあえぐ人々は甘藷によって救われたといっても過言ではなく、その業績は今でも語り継がれ、「芋大主」(ウムウフシュ)と呼ばれ親しまれています。 現代までよく知られている野國總管ですが、いつ生まれたのか、どのような暮しをし、いつ亡くなったかは分かっていません。また、なぜ中国に渡ることができ、甘藷を持ち帰ることができたのかも定かではなく、野國總管という名前と1605年に中国から甘藷を伝えたことしか分かっていません。 伝えられる名前の「野國」から野国出身が想像でき、「總管」から進貢船に係りのある仕事をしていたと考えられます。その頃中国は明国の時代で強大な勢力を誇っていて、近隣諸国に執貢をうながし、自国に従うようにもとめていました、我が琉球もそれに従い中国皇帝に頁ぎものを送る進貢貿易を行いました、その貿易船が進貢船です。 野國總管はその舶に乗り、はるか海を超え、甘藷を琉球にもたらし、そして各地の先達の手により日本全国に普及し、今に至っています。まさに、命を支える食の大恩人といえる人物です。
2005年9月30日に開かれた野國總管甘藷伝来400年祭記念式典で、「野国いも宣言」を発表しました。
1605年、我が町の先達・野國總管によって中国福建省からもたらされた甘藷は、野國總管生誕の地・野国を発信基地として琉球の全ての村々へ、そして、薩摩を経て全国へと広まり、人々を餓えや飢饉から救い、全国民が等しくその恩恵に浴することになりました。今日、甘藷は未来を希求する健康食品として注目を浴びております。 甘藷伝来400年の節目を迎える2005年、野國總管の偉業を奉祝する「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行されました。この慶賀を機に、我が国における甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、野國總管を称え、甘藷を「野国いも」の愛称で呼ぶことを高々と宣言します。